■藤枝そこ知り物語【人物編vol.02】

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えます。

これまでには数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

二代藤枝市長 飯塚正二

県企業局長から藤枝市助役に 藤枝市の南北融和に尽力 

飯塚正二は、大正二年二月二十四日、藤枝市瀬戸新屋に飯塚喜太郎の五男として生まれました。生まれが大正二年なので「正二」と名付けられました。正二は、ガキ大将で近所の仲間を引き連れ、近くのへの字山で兵隊ごっこをして明け暮れる少年でした。

三度の軍隊召集と県庁勤め

大正十五年、青島尋常高等小学校から、藤枝農学校(現藤枝北高校)に進学。最初は静岡市役所に勤め、昭和七年に静岡県職員となりました。翌八年、陸軍関東軍騎兵隊に入営、十一年に県庁に復職。翌十二年臨時召集により三師団に編入され、十三年陸軍兵軍曹として召集解除となり、静岡県経済部水産課へ復職。十六年に三度目の臨時召集により陸軍野戦重砲兵三連隊に応招、臨時召集が解除されたのは十八年でした。その後内務部地方課に配属され、終戦を迎えました。

内務省勤務と初代企業局長 

昭和二十一年、内務省へ出向。大村内務大臣秘書となり、GHQにも頻繁に通いました。二十二年内務省解体のため静岡県職員に復職。二十六年、知事公室秘書課長心得の時、選挙で知事が交代し、平職員に降格となったこともありました。東京事務所長時代には、関係六県の先頭になり、工業整備特別地域整備促進法を実現させ手腕を発揮。その後、副出納長、事業部長となりました。四十三年、初代の企業局長として、工業誘致と工業用水の確保に県内を走り回りました。

藤枝市助役から市長へ 

昭和四十七年二月、竹山知事のもとに山口森三藤枝市長と大石節県会議長が来訪。大井新一助役の退任に伴い、正二を後任助役にとの依頼でした。竹山知事の「郷土のために尽くしてやれ」の言葉で依頼を承認、同年六月藤枝市助役となり、五十一年、藤枝市長に就任しました。
前山口市長にならい、出身地と反対側の北部地域を意識し、藤枝南北のバランスのとれた地域開発を進めました。同様な施設を南北に造るのではなく、一つの町なのだから、大きな立派な施設を一つ造りたいと地域や議員に訴えました。志太地域の中核都市となるべく、市民憲章・市歌の制定、駅南地区の土地区画整理事業、蓮華寺池公園・郷土博物館の整備、総合病院の新築移転、産業大学の誘致、各地区公民館設置、保健センターを拠点とした健康づくり事業、サッカーのまちづくり等に尽力しました。

自叙伝「三惚れ人生」出版

平成四年、通算四期十六年を務めて藤枝市長を辞任。同年勲三等瑞宝章を受章しました。九年には、座右の銘を冠した自叙伝「三惚れ人生」を出版しました。平成十一年四月二十七日逝去、八十六歳でした。

 

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