【江﨑浮山(ふざん)】新聞販売・映画・興行で成功、 有名人2ショット六十年かけ四万四千枚

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

並立写真王 江﨑浮山

新聞販売・映画・興行で成功、 有名人2ショット六十年かけ四万四千枚

江﨑浮山(本名・千代吉)は、明治二十年八月、愛知県小牧に江﨑友吉の五男として生まれました。小学校を出ると浮山は名古屋に出て米屋で働きました。二十歳の時独立し、製粉卸商を始め、三十歳の時、趣味ニ生キル店「芝居屋」を開業。芝居屋と名づけたように浮山は演劇マニアで自分でも戯曲を書き、新派の伊井蓉峰一座で上演するほどでした。また、芝居屋の店先には並立写真が飾ってありました。大正十四年、三十九歳の時には、生き葬儀を大々的に行い人々を驚かせました。その後、静岡日報の名古屋支局長もしていました。浮山という号は、昭和五年、明治の大言論人である徳富蘇峰に「山が浮くような愉快な人」と評され、名づけてもらったものです。

藤枝に新聞販売店を開業

昭和十三年、兄・鋹兵衛(ちょうべえ)(静岡・江﨑新聞店創立者)の勧めによって藤枝に居を移し、新聞販売店(東京日日新聞藤枝販売所/現在の藤枝江﨑新聞店)を開きました。五十歳のときでした。浮山は、名古屋時代の人脈を生かし、劇場・旭光座を借りて、度々興行を行い、昭和十四年に買収。翌年松竹館も手に入れ、本格的に興行事業に乗り出しました。戦後、大都市での活動が難しくなった演劇者たちに出演の場を提供し、地方文化の向上に努めました。昭和二十七年、合売体制から専売制となると鍋や釜を景品に配る熾烈な「鍋釜戦争」が始まりました。浮山は、他店との差別化のため、旭光座や松竹館の興行に購読者を無料招待し販売地域を拡大していきました。

次々と劇場・映画館を設立

また、昭和二十九年から三十二年にかけて毎日映画劇場、テアトル毎日、岡部毎日、大井川・駿南劇場を次々と開設。浮山は、興行であげた収益を地域の人たちに無利子で融通しました。しかし、テレビの時代となり、映画産業が斜陽となると、昭和四十二年から四十八年にかけて次々に閉館を余儀なくされました。

並立写真への情熱

一方、趣味が執念になったと評された並立写真は、名古屋の末広座から始まります。芝居好きだった浮山が二十三歳の時、中村鴈治郎(がんじろう)の名脇役市川市蔵と、当時新派を結成し、一世を風靡した伊井蓉峰から記念写真を求められたのが始まりでした。昭和三十六年には、毎日新聞社の求めに応じて東京・名古屋・静岡・大阪で並立写真展を開催。浮山の名は全国に知れ渡りました。東京に、専属の写真家と運転手がいて八十代半ばまで撮り続け、その数は、四万三千八百枚にのぼり、並立写真集を三度出版しました。浮山は、「藤枝に安住の地を求め、この地の土に埋もれる喜びで満ちている。後顧の憂いはない」という言葉を残し、昭和五十九年一月十七日、生涯を閉じました。九十六歳でした。

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