藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
仮名の書家・小野鵞堂(おの がどう)
「鵞堂流」として一家を成す
小野鵞堂は、明治、大正の仮名書道界を代表する大家です。現代の仮名書道の基礎を築いた一人です。平安期の草仮名を基底として独自の流麗なスタイルは「鵞堂流」と称され多くの門弟を排出しました。
田中藩士の長男として誕生
文久2年(1862年)駿河国藤枝に、田中藩士の武道師範、小野清右衛門成命(せいめい)の長男として生まれました。田中藩主本多正納が千葉県の長尾に国替になり、鵞堂も長尾で成長しました。早くに父と死別したため、明治6年12歳のとき上京して成瀬大域に漢籍を学びます。大蔵省の書記となってからも、和様の古筆、名蹟の研究を独学で続け、書の芸域を広めていきました。
陸が名付けた「鵞堂」の号
大蔵省を退職し、明治を代表する言論人・ジャーナリスト陸 羯南(くが かつなん)の日本新聞社に入社。陸社長から中国の書聖「王羲之(おうぎし)」がガチョウを好んだことからその故事にちなんで「鵞堂」の号をつけてもらい、本格的に書の道に進んだのです。
昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)に書を献上
24年29歳のとき昭憲皇太后(明治天皇の皇后)に『小倉百人一首』を献上すると、文字が優美で立派なことを賞賛され、鵞堂の名声が一挙にあがりました。自宅に「斯華廼屋(このはなのや)」と名付けた書塾を開き、同年華族女学校(現学習院女子高等科)の教授になりました。また、貞明皇后(大正天皇の皇后)にも書を教授するようになり、その調和体は他の追随を許さないと言われ、鵞堂の名声はいっそう高くなっていきました。漢字・仮名の手本を数多く出版し、百種以上の本が刊行され、その流麗な書体は、発刊されるごとに反響を呼びました。鵞堂はすたれていたこの和様を再び盛んにし、漢字と仮名とがよく調和した鵞堂独得の書風「鵞堂流」を完成させたのです。
「斯華会」と「斯華の友」
鵞堂は明治36年「斯華会(このはなかい)」を創設し、その後書道雑誌『斯華の友』を創刊します。すぐに月刊となり、その後『書道研究斯華の友』と改名。通信教育による書道の普及活動は全国の書を学ぶ多くの人々に影響を与えました。のちに書家となる藤枝の沖六鵬もその一人でした。
後継者の急死と継承
順調に発展して行った「斯華会」でしたが、大正9年(1920年)鵞堂が次代を託した次男、小鵞が26歳で急死し、鵞堂もその2年後、学習院教授として在職のまま61歳で没します。「斯華会」は四男、成鵞(せいが)が跡を継ぎ、之鵞(しが)、そして現在の之右へ引き継がれて今日に至っています。