藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
枝っこ文士・小川国夫
病弱だった少年期
小川国夫は、昭和2年藤枝市長楽寺に小川富士太郎の長男として生れました。幼稚園時代に藤枝駅前に転居し、青島小学校から旧制志太中に進学しました。少年期は病弱だったため、自宅療養中に文学や絵画に触れ、キリスト教と聖書に出会いました。
生涯の友と小説への道
そして、旧制静岡高校時代に生涯の友となる丹羽正と出会います。美術部に入り、絵ばかり描いていた国夫に丹羽は、小説を書くべきだとすすめました。20歳の頃にカトリックの洗礼を受け、小説を書き始めました。東京大学国文科に入学し、昭和28年、在学中にパリに私費留学します。ソルボンヌ大学に入学し、翌年には、グルノーブル大学に移りました。この留学中にオートバイでヨーロッパ各地を旅行した体験が、その後発表する小説の題材となりました。帰国後は大学を中退し、作家活動にはいりました。
島尾敏雄が作品を絶賛
そして昭和40年、私家版「アポロンの島」を自費出版すると朝日新聞日曜版の「一冊の本」で島尾敏雄に激賞され、作家として注目を浴びることになりました。国夫の小説には、3つの舞台があります。1つは聖書の世界を中心としたもの。2つ目は故郷の大井川流域を舞台としたもの。そして3つ目は実際の体験や見聞、交際を素とした私小説的なものです。故郷を基点とした半目伝的なものです。作品には、「或る聖書」「試みの岸」「彼の故郷」など、簡潔な文体でありながら原初的な光と影の光景の中に人間の行為を投影した作品群は、「内向の世代」を代表する作家と評されました。よく色紙や署名の際に書いた「言葉は光」は、小川国夫の文学世界を端的に現わしています。
数々の文学賞を受賞
国夫は、藤枝生まれ藤枝育ちなので、自らを「枝っ子」と称しました。昭和61年「逸いつみ民ん」で第13回川端康成文学賞、平成6年には『悲しみの港』で伊藤整文学賞を受賞、平成11年には『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞小説賞を受賞しました。平成12年には、日本芸術院賞受賞し、平成17年には、日本芸術院の会員となりました。平成20年逝去、80歳でした。