【熊谷次郎直実】日本一の剛の者とされた武将
藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
熊谷次郎直実と蓮生寺
日本一の剛の者とされた武将 出家し蓮生となり、名僧に
熊谷次郎直実は、永治元年(1141)熊谷郷(熊谷市)に熊谷直貞の三男として生まれました。2歳の時、父直貞が亡くなり、叔父の久下直光に育てられました。元服を迎え、弓矢丸を次郎直実と改めました。
日本一の剛の者に
直実は源平の戦で常に先陣を切って戦いました。その勇ましい戦いぶりは、源頼朝からは「日本一の剛の者」と賞賛されるほど見事なものでした。寿永三年(1184)、直実は、一ノ谷の合戦において笛の名手で17歳の平敦盛の首を取りましたが、戦いの無常さを感じ、敦盛の父経盛に首と笛に添えて詫び状を送りました。それに対し、経盛も礼状を直実に届けました。この話は、「直実の送り状」「経盛の返し状」として有名です。
法力房蓮生誕生
直実は、常に敦盛の霊を弔うため、建久元年(1190)、高野山に入り熊谷寺を建てました。その後、法然上人の本願念仏の教えに救いの道を見いだし、上人の弟子となり名も法力房蓮生(以後蓮生)と改めました。直実53歳の時でした。建久六年(1195)、蓮生は母の病気見舞いのために京都から熊谷へ帰りました。その折、西方極楽浄土の阿弥陀様に向かい合掌し念仏を称えるため、馬の背に逆さまに跨りました。これを東行逆馬(とうこうつかさうま)といいます。
十念質入(じゅうねんしちいれ)と蓮生寺建立
大井川の手前、小夜の中山で山賊に会い無一文となった蓮生は、藤枝の福井長者の屋敷を訪れ旅の銭を借りることにしました。しかし欲深い福井長者は「質に入れる物がなければ貸せない」と断りました。蓮生は「ならば大切な念仏を質に入れよう」と福井長者に向かい合掌し念仏を称えると、念仏が金色に輝く阿弥陀様の姿となって現れ、福井長者の口の中に入りました。驚いた福井長者は一貫文を貸しました。翌春、蓮生は京都へ戻る途中、藤枝の福井長者の屋敷を訪れ、借りた銭を返すと福井長者に質に入れた念仏の返却を申し入れました。困っている福井長者に蓮生は「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい」と答えました。福井長者が合掌し一心に念仏を称えると、福井長者の称えた念仏が阿弥陀様の姿となって現れ蓮生に戻りました。福井長者は蓮生の弟子となり、家財をなげうち、念仏の道場の蓮生寺を建てました。別れの折、蓮生から、自作の寿像を授かりました。
親鸞聖人により浄土真宗に
貞永二年(1233)、親鸞聖人が京都に戻る途中に蓮生寺に立ち寄られたご縁で浄土真宗の寺となりました。また、江戸時代には田中藩主本多家の菩提寺となりました。