【笹野甚四郎】軽便藤相鉄道の初代社長

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

事業家: 笹野甚四郎

缶詰事業で財成し地域貢献

笹野甚四郎は嘉永六年(1853)10月3日、藤枝宿、下伝馬の郷宿「ならや」を営む笹野八百次(やおじ)の長男として生まれました。幼名を十三吉(とみきち)といいました。家は、裕福で恵まれた環境でしたが、5歳の時実父を、12歳で祖父を、14歳で継父を亡くし、笹野家は苦境に立たされました。代官に頼み込み15歳にならずして元服し家督を継ぐと、祖父の甚四郎の名を襲名し、ならやの看板を捨て料理屋を起こしました。明治2年、隣家からの火事で全焼し、それを機に、民家で作られていた駿河半紙を扱う紙屋に転身すると藤枝で一番の店に成長、同業者が増すと次に運送業を始めました。

25歳で藤枝宿総代に

甚四郎は周囲の人望高く、25歳の時には、藤枝宿の総代に選ばれました。明治22年に開通した東海道線の青島の停車場は不便で、藤枝宿の商人たちは、焼津停車場を使っていました。藤枝焼津間の道路改修が頓挫すると藤枝宿の人々が藤枝停車場へ出せるように、甚四郎は藤枝駅前に鉄道荷物専門店・丘洋(きゅうよう)社を作りました。

缶詰事業が軍の御用に

明治24年、甚四郎は大望を抱き、東京へ出て、精米所の経営に腕をふるい、次に缶詰事業に乗り出しました。当時、缶詰はほとんど輸入だったため、甚四郎は、研究を重ね、国産の製造を推事業家笹野甚四郎軽便藤相(とうそう)鉄道の初代社長缶詰事業で財成し地域貢献進しました。明治27年、日清戦争に際して甚四郎の食糧事業が注目され、海軍省に納めることに成功。同37年には陸軍にも納入され、兵食の3分の1を賄うまでになりました。財を成した甚四郎は明治38年、静岡の紺屋町に本拠を移し、朝鮮鎮海湾(ちんかいわん)の開拓などに精力的に取り組みました。

藤相鉄道と川根電力索道(さくどう)

甚四郎は、望郷、愛郷の念厚く、郷里藤枝の発展にかかわる事業に力を入れました。軽便事業では、焼津を基点にした駿遠鉄道と熾烈な認可・建設競争を演じ、甚四郎は藤相鉄道社長として奔走しました。当初駿遠鉄道を応援していた元老井上馨侯爵を説得し、藤枝から相良までの藤相鉄道を開通、志太榛原地域の発展に大きく寄与しました。また、大井川の船便が発達して川根方面からの藤枝への荷物が激減すると、藤枝の滝沢から、檜峠、地名、千頭を4時間半で結ぶ川根電力索道を完成させました。この索道は、藤枝への物流を増加させ、商業の発展に寄与しただけでなく、その後の水力発電所建設や大井川鉄道の建設に力を発揮しました。劇場戦捷(せんしょう)座と後の旭光(きょっこう)座の建設にも関わり、藤枝共盛(きょうせい)銀行監督人、志太電気、静岡改良漆器等の社長などを歴任しました。昭和3年、病に倒れ、帰らぬ人となりました。享年75歳でした。

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