藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
月の沙漠の詩人・加藤まさを
千葉御宿(おんじゅく)に詩碑と駱駝(らくだ)像
加藤まさをは、明治31年(1897)藤枝市田中に加藤松吉の長男として生まれました。名を正男といいました。西益津尋常小高等学校卒業後、明治45年上京して早稲田中学と高輪中学に学び、大正5年、立教大学英文科に進みました。絵が好きだったまさをは、大学2年のとき『花の精』他の絵ハガキを出版しました。
抒情画家加藤まさを誕生
その時、ペンネームを「まさを」とし、抒情画家としてスタートを切ったのです。大学の文芸誌「塔」の口絵やカット、装禎を引き受け、大正9年童謡画集「カナリヤの墓」を出版しました。続いて、詩集「涙壹(なみだつぼ)」童謡集「合歓の揺籃(ねむのゆりかご)」を刊行、「少女界」、「少女画報」、「少女倶楽部」などに、挿絵入り童謡、少女小説を発表し売れっ子となりました。
「月の沙漠」の誕生
月の沙漠をはるばると、の冒頭で知られる「月の沙漠」の詩は大正12年3月号の「少女倶楽部」に発表したものです。この詩に曲をつけた佐々木すぐるは、全国各地を回る中、いつも「月の沙漠」を最初に演奏しました。これが評判を得、後の大ヒットへと繋がりました。大正15年少女小説を集めた「遠い薔薇(ばら)」を刊行、また同年春陽堂から「まさを抒情詩集」を刊行して話題となりました。昭和に入り4年「抒情小曲集」長編小説「消えゆく虹」、10年には映画の主題歌「マドロスの唄」「逢いに来たのよ」などを書きました。
戦前の沈黙と戦後の復活
しかし、戦争中は沈黙を余儀なくされたまさをは、昭和28年開隆堂版新しい中学国語に少年詩「フェアプレー」を掲載、講談社の世界名作童話集に挿絵を執筆して再び人気を集めました。まさをの抒情画は、健康的で文学的抒情が強く、大正口マンが凝縮され、描く少女は、純情で、乙女のやさしいはじらいをたたえていました。昭和44年、千葉県御宿の海岸に「月の沙漠」の詩碑と記念像(駱駝像)が建立され、加藤まさをの名は再び世に知られるようになりました。昭和52年、まさをが病を押して編纂に取り組んだ「加藤まさを抒情画集」を発行後間もなく生涯を御宿で閉じました。80歳でした。