【石井謙次郎】
朝比奈山開墾事業を推進

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えます。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

旧幕臣開墾者 石井謙次郎

朝比奈山開墾事業を推進、多様な事業を展開し成果

石井謙次郎は、天保九年(一八三八)、常陸国真壁郡谷貝村(現茨城県桜川市)の豪農市村茂左衛門の二男として生まれました。幕末の激動期にあって謙次郎も青雲の志を抱き、江戸に出て、文武の修行に励んでいました。文久三年(一八六三)頃、縁あって幕府の御家人だった石井千之助豊直の婿養子となった謙次郎は、江戸城西の丸御膳所の仕事を皮切りに、幕府陸軍所教授手伝助を経て、撒兵隊指図役並となり、交際総括として情報収集の重要な任務を担っていました。慶応四年(一八六八)八月榎本武揚艦隊の一員として仙台に向かう途中銚子沖で座礁したため船から脱出。江戸に戻り謹慎の身となりましたが、徳川家達の駿府移住に伴い来駿し、ここで謹慎が解かれ、静岡藩の三等勤番組となり、養父の属していた新居勤番組の頭支配となったのです。

朝比奈山御林開墾に着手

明治二年、謙次郎は静岡藩に「朝比奈山御林開墾願」を提出し、翌三年に許可がおります。当時、静岡藩には江戸から多数の士族(旧幕臣)が移住したのでその生活支援のための士族授産政策が勧められ、その一つが牧之原に代表される茶園の開拓と茶業振興でした。千町歩余に及ぶ広大な朝比奈山は、元田中藩領で山中の四ヶ所の沢の斜面は、イバラやツルの繁茂する生育の悪い土地でした。ここを焼畑として茶を中心に桑、コウゾなどを植え付ける計画を立てたのです。

次々と新事業を展開

明治六年には、二八七町六反歩とこの地方最大の茶園となりました。さらに、謙次郎は、製茶場を設けて宇治製法による手揉茶の製造を開始。明治八年には、現在の農協に近い産物生育会社「賛成会」を設立、茶園の造成、製茶、製茶販売、製茶伝習などの事業を起こし、その資本調達のために「総益講」を組織しました。明治十一年には、荒茶を再製して輸出、翌十二年には、紅茶の製造、販売を手がける等、謙次郎は次々と新規事業を立ち上げ着々と成果をあげていきました。また、同時に大井川流域の寄洲の開拓や石炭の試掘、硫黄鉱山の開発など多くの事業を手がけました。

桂島に新旧の顕彰碑

明治十五年、苦楽を共にした一部有志によって須谷の開墾地に「賛成碑」が建立されました。度重なる茶価の暴落や茶園経営の経費を賄うため、謙次郎は東奔西走の中、志半ばにして明治二十一年、茨城に出張中に倒れ、帰らぬ人となりました。享年五十一歳でした。平成十九年、開墾事業の拠点、藤枝市岡部町桂島に顕彰碑が建てられました。碑に記された「賛成天地之化育」の書は、明治四年に開墾に当たり「山岡鉄舟」から贈られたものです。

 

PICK UP!!