藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
信念の政治家・髙見三郎
静岡県副知事から代議士に・佐藤内閣の文部大臣就任
独学で学び、教員に
髙見三郎は、明治37年(1904)山口県美弥市に髙見政五郎の三男として生まれました。父政五郎は他人から頼まれごとをされると嫌とは言えない人柄で、他人の借金の保証人になり、髙見家は破産同然でした。三郎は、百姓と炭焼きで稼いだお金で中学講義録を買い独学で勉強。検定試験に合格し、小学校教員となりました。ある時、三郎が土足のまま校舎に入ろうとした県の役人に抵抗した事で校長が詫びに行くと逆にいい先生がいるとほめられました。
陸軍とも渡り合い筋を貫く
大正13年、山口歩兵連隊に入隊中にも中等教員検定試験に合格。昭和3年大阪府天王寺師範学校を卒業すると大阪府主事補に採用され、翌4年から5年にかけて高等文官試験の行政科と司法科に合格。昭和13年には内務省に採用され、秋田県では秘書課長、農務経済課長等を歴任しました。昭和15年、軍事保護院事務官として援護局扶助課に勤務した時には、婦人団体の統合問題で陸軍と対立、激しくわたり合いました。戦時中は、警視庁で経済警察部経済第一課長、農商省で生活物資局代用食品課長を務め、戦後は、和歌山県警察部長、奈良県経済部長を経て、昭和22年静岡県経済部長となりました。食糧事情が悪かった県の産物供給を安定させ、台風に見舞われた折には、農林省に米の供出量を4分の1にさせるなど農民の絶大な支持を集め、県議会からは感謝状を送られるほどでした。当時部長室は門前市を成し、議員でさえもなかなか話ができないほどでした。
静岡県副知事から代議士に
転機が訪れたのは、昭和26年。知事選に伴い、小林知事に対抗する斎藤総務部長を押したとして、経済部長を退任させられました。「髙見を切った」と小林知事の立場は悪くなり、結果斎藤寿夫知事が誕生し、三郎は静岡県副知事として、返り咲きました。そして、ぜひ代議士にという声に押され、藤枝に居を構え、昭和27年静岡1区から出馬し、見事当選。昭和33年灘尾文部大臣の下、文部政務次官に就任。勤評闘争など日教組問題に取り組み、その名を知らしめました。昭和46年、第3次佐藤内閣で文部大臣に就任。党内の猛反対を押し切って日教組の幹部とトップ会談を行い、中央教育審議会の答申を受けて、新しい教育改革の道を拓きました。竹山知事とは、医大誘致問題で対立、知事選では主流派を相手に永原陣営の指揮を執りました。昭和51年、政界を引退。晩年は教育に身を捧げました。昭和53年逝去。74歳でした。