藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
苦学の書家・沖六鵬(おき りくほう)
和市(和一)から六鳳、そして六鵬へ
昭和43年(1968)9月、TBS系でポーラテレビ小説が始まりました。その記念すべき第1作に選ばれたのが、沖六鵬原作の実母、養母、継母持つ沖少年の数奇な運命を描いた「三人の母」でした。
生まれた翌日養子に
沖六鵬は、明治28年(1895)、焼津の城之腰に生まれ、和市(和一)と名付けらました。しかし、翌日には、藤枝町長楽寺区の下駄屋を営む鈴木家の養子となり、以後、多難な幼少年期をおくることになります。小学校入学直後、養父の病により、生活が一変し、その後、実父と継母に引き取られ遠州、静岡、沼津を転々として暮らす小学校時代をおくりました。
習字にめざめる
尋常高等小学校4年の時、校長や受持ちから、習字の成績がよくないので、発奮するように注意をうけたのがきっかけで毎晩、1時間づつの習字を日課としました。その結果、郡下の小学校展覧会で初入賞するまでになっていきました。
13歳で家出し藤枝に
次の転機は13歳の時。提灯屋に嫌気が差し、沼津から藤枝の養母の家まで歩いたのです。藤枝では、徒弟や丁稚奉公をしながら、寸暇を惜しんで漢文、習字などの勉強に励みました。16才の時には、働きながら東京の開成中学、日本大学美学科に学びますが、大正12年の大震災で学業を諦め藤枝へ帰ってきました。
書塾「六鳳書院」を開く
長楽寺や幼稚園、白子などで書塾「六鳳書院」を開き、多くの子弟の指導に当たりました。雅号の六鳳は、文章に感動した作家巌谷一六の「六」と書の風格に惹かれた書画家の前田黙鳳の「鳳」から取ったものです。そして、藤枝で結婚後、昭和2年に静岡へ転居し、雅号も六鳳から六鵬に変え、書家として本格的に活躍することになりました。また、焼津高等裁縫女学校(現、焼津高校)の書道教員を皮切りに、藤枝東高校、静岡城北高校、静岡女子商業、静岡雙葉高校などに奉職し、最後は奈良教員大学講師を務めました。
書道界での活躍
大正15年に大日本書道作振会に3点入選後、泰東展で文部大臣賞、日展入選後、日展会員、審査員となり、書道界においても静岡県書道連盟会長、日本書道連盟副理事長、全日本書道連盟総務など、大きな功績を残しました。昭和47年、三人の母の恩に報いるために長楽寺に慈母観音像を建立しました。米寿記念碑を臨済寺に建てた昭和57年に88歳の生涯を閉じました。