【石上清兵衛】語り継がれる“高柳の英雄”

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えます。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

高柳の義農 石上清兵衛

代官に減免を直訴し斬罪、遺徳を偲び、地域で顕彰

石上清兵衛の先祖は石上兎角之輔といい、甲斐の武田勝頼の家臣でした。勝頼が天目山の戦に破れた後、志太郡笹間村石上に石上城を築き、一時は権勢を振るったようです。その後、寛文年間に末孫の石上与兵衛が母親とともに(藤枝市)高柳の地へ移住。農地の開拓と共に綿の栽培を行い、家業は隆盛でした。この初代与兵衛の子が清兵衛です。

父の死で若くして名主に

清兵衛は、若いながらも正義感にあふれ、立派な人格者として知られていました。元禄三年(一六九○)、父・与兵衛が亡くなり、二十三歳で二代目を継ぎ、高柳の地域の名主となりました。その翌元禄四年、田中藩も財政難で年貢の取立てが厳しく村民は苦しんでいました。日々の暮らしにも事欠くほどでした。その窮状を見かねた清兵衛は、組頭二人とともに、減免を願いに田中城に向かいました。

代官に減免を直訴し斬罪

代官の野田三郎左衛門は、職務柄「お前たちの願いは許すが、お前たちの首と交換だ」と威嚇しました。組頭二人は、その場から逃げ出しました。しかし、清兵衛は、逃げ出すことなく、願いに来た上は、それも覚悟の上と決意を改めて表明しました。代官は「武士の一言」であり、止むなく清兵衛を茶屋河原を刑場として斬罪に処することを誓約したのです。年貢が納付を終えたのは翌元禄五年二月末、そしてついに処刑の日を迎えました。清兵衛は、刑場に向かう途中、懇意にしていた娘に出会いました。娘から知らせを受けた村人たちは、相談し、皆で養源院の住職に助命を頼みに行きました。日も暮れ、斬首の時間が迫ってきました。首切り役人も寺僧が助命嘆願に来ることを念じつつ、待っていました。しかし、住職が刑場に到着したときには、時既に遅く、刑が執行された後だったのです。時に元禄五年(一六九二)三月四日でした。

その遺徳を偲ぶ活動継承

その後、村人たちは、毎年供養を行なっていました。嘉永三年(一八五○)には、日切地蔵堂に清兵衛地蔵を祀りました。明治二十五年、清兵衛の遺徳を残そうと、清兵衛の木像を刻み、養源院に安置し、一大供養を行ない、戒名も「石上院華屋清桃居士」を追称し、その事跡を高洲村史に掲載して、その遺徳を後世に残すこととしました。昭和二十五年、高洲の役場・農協・農民組合の主催により、追悼法要がされ、昭和五十四年と平成元年には、高柳「ふる里をしらべる会」が追善供養祭を開催。平成九年、子孫の石上平二氏が「義農清兵衛と地区の人々」を発行、平成十年、高洲歴史愛好会が「清兵衛地蔵顕彰碑」を建立。平成二十四年、遺徳を偲び顕彰する会が「義農石上清兵衛さんと高柳の歴史」を発行しました。

 

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