藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
西益津村長から市長へ・6期22年で市の基盤整備 山口森三
山口忠五郎の養子となる
山口森三は、明治40年8月志太郡(焼津市)大富村中新田の大畑貞吉の三男として生まれました。
大正9年大富小学校尋常科を卒業後、静岡中学校に入学。5年生の時には、庭球部の主将を務めました。
大正14年静岡高等学校、昭和3年東京帝国大学に入学。4年の時、高熱でしばらく休養し、卒業後は郷里で静養していました。
昭和7年地元の代議士山口忠五郎の養子となり、山口悦子と結婚。同年陸軍名古屋歩兵第六連隊に入隊。年末に除隊。翌8年森三の仲人だった増田次郎が社長を務める大同電力に入社。その後、日本発送電では増田総裁の秘書も勤めました。
昭和16年召集され、名古屋停車場司令部、続いて名古屋地区鉄道司令部に勤務。昭和20年12月、召集解除となった時は、陸軍主計大尉でした。
西益津村長から藤枝市長へ
昭和22年焼津の昭和水産工業の専務取締役となる一方で、26年、西益津村長に就任。昭和29年藤枝町長を経て、初代藤枝市長に就任しました。
この合併はまず西益津村と藤枝町が合併し、その後、青島、葉梨、高洲、大洲、稲葉、瀬戸谷が合併する形で進みました。一番もめたのが、市の名前と庁舎の場所でした。最後は、斉藤知事が調停に乗り出し、3月4日に青島町議会が評決し決着。それから膨大な合併書類を作成し、3月31日、まさに合併期限ギリギリの藤枝市誕生でした。
第1回の市長選挙は、268票差で森三が勝利。初議会は、藤枝小学校の講堂を借りて行われました。最も頭を痛めたのは助役と収入役の人事で、最初の収入役案は撤回され、新人事案で再可決されました。まとまらない議会に心身ともに疲れ辞表を出して入院する一幕もありました。
藤枝市の基盤づくりに邁進
その後は、市庁舎や市民会館、文化センター、市民グランド、志太病院、焼却場の建設。大工場の誘致、木工団地、金属工業団地の建設など多くの事業を推進。昭和32年静岡国体のサッカー会場となり、天皇・皇后両陛下が来藤し、森三は先導役を勤めました。
公職は、静岡県サッカー協会会長や静岡県茶手揉保存会会長などを歴任。昭和52年、藤枝市名誉市民第1号となり、翌年、勲四等旭日小綬章を受章。平成14年2月23日逝去。94歳でした。市役所の玄関脇に胸像が建っています。



