【村越化石】魂の俳人

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

病苦を乗り越え、生の息吹を魂で詠む 玉露の里に「八十八夜」の句碑建立 

発病、結婚、楽泉園へ

村越化石は、大正11年、岡部町新舟に生まれました。本名は、英彦。学業は優秀で、藤枝の志太中(現藤枝東高校)に進学しました。中学4年の時、健康診断でハンセン病だと診断され、化石は退学。治療のために東京の病人宿に行くことを余儀なくされましたが、抵抗した際、「行かないのなら、母と一緒に死んでくれますか」と言われ、郷里をあとにすることを覚悟しました。これは昭和13年、15歳の時でした。

東京の病人宿は無認可の民間治療所。戦時色が強まると、国の隔離政策で草津の湯ノ沢に移転。そこで同病の「なみ」と知り合い、結婚します。昭和16年、現在の国立療養所「栗生楽泉園」に入所し、現在に至っています。

 

化石という号と師

俳句を新聞に投句するにあたり考えたのが「化石」という号でした。「もう家にも帰れず、社会にも復帰できない、ただここで土に埋もれて石と化すのみ。せめて生きた証を俳句で残したい」という意味が込められていました。投句してみると入選を繰り返すようになり、次第に俳句にのめり込み、楽泉園内の「高原俳句会」で句作に励みました。

化石の最初の師は大阪の医師でホトトギス同人の本多一杉でした。また、同病で先輩俳人に浅香甲陽がおり、手本としました。

 

師・大野林火との出会い

昭和24年、化石は、大野林火の句集「冬雁」に出会い、「冬雁に水を打つたるごとき夜空」という句に感銘を受けました。林火の「濱」に入会し、やがて直接草津の楽泉園で句会指導を受けることなり、以来、林火は生涯の師となりました。

戦後、プロミンという特効薬が出来、劇的な効果をもたらし、ハンセン病は治る病となりました。それまでの闘病俳句が、この頃から光あふれる生命の喜びを表現するものとなりました。「除夜の湯に肌触れあへり生くるべし」という句はその典型です。しかし、化石は30歳で左眼を、48歳の時に右眼も失明し、光を失います。化石を支えたのは師・林火の「心の眼で心を澄ませて詠みなさい」という言葉でした。昭和37年に句集『独眼』を出版。出版を楽しみにしていた化石の母は、上梓を待たずに旅立ちました。

六十三年ぶりの帰郷

以後、昨年発行の『八十路』まで八冊の句集を刊行。また、角川俳句賞、俳人協会賞、蛇笏賞などを受賞、平成3年には紫綬褒章を受けました。

平成14年、句碑の除幕式に63年ぶりに帰郷した化石は、生家に二泊し、友人たちの歓迎を受けました。その時のことを、「よき里によき人ら住み茶が咲けり」と化石は詠みました。

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