【増田次郎】立志伝中の人 日本発送電(株)の初代総裁に

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

大正昭和の郷土立志の模範 増田次郎(ますだじろう)

丁稚奉公と印刷所の全焼

増田次郎は明治元年(1868)2月26日藤枝市稲川の農家増田儀右衛門の次男として生れました。小学校を出ると、六合にある親戚の浜田屋に丁稚奉公に出ましたが、経営難に陥り、昼間は様々なものを商い、夜は居酒屋をして支えました。16歳で家に戻り、農業に従事しますが、20歳の時には、家屋敷を売却。そんな生活の中父の勧めで次郎は、東京の東洋英和学校と有得館に学びました。

明治23年父の死により、藤枝に帰郷。翌年、静岡にて函有社を仲間とともに買収し、印刷業を始めました。県と警察を相手に営業し順調な経営をしていましたが、明治25年の静岡大火で印刷所が全焼。借金に終われる日々となり、行李ひとつで、引っ越す羽目になりました。落ち着き先は、伊豆の松崎でした。

居候から村役場の書記に

松崎は印刷の関係で知り合った県議の福本七五三の世話でした。大中屋という小料理屋に居候していました。明治28年、次郎の才能を惜しんだ福本県議の紹介で松崎の小学校の書記、加茂郡役所を経て、駿東郡書記となり、文官試験に合格。元本多藩の藩士で駿東郡長の岡本武輝が台湾に赴任するに当たり、次郎も一緒にいくこととなりました。

後藤新平の秘書に抜擢

後藤新平は、台湾総督府民政長官で、満鉄初代総裁や逓信・内務・外務大臣、東京市長などを務めた大物です。次郎は、台湾から日本へ向かう船上で上司の局長から紹介されたのが縁で、1属官から民政長官の秘書へと抜擢されたのです。

次郎の働きは目を見張るものでした。命じられたものは翌朝までにすべて整える秘書でした。後藤が満鉄総裁、鉄道院総裁となると、その秘書官を務めました。

代議士から実業界へ

大正4年、志太郡下の有志に推され立候補し当選。1期のみ代議士生活を送りました。その後、後藤の紹介で大同電力の福沢桃介に出会い、電力事業へとかかわることになりました。

昭和3年、大同電力の社長となり、関連会社十数社の社長や重役として活躍し、電力界の重鎮となりました。昭和14年、全ての電力会社を統合した国策会社日本発送電の初代総裁となり、その後、台湾電力の社長を務めます。戦後は、社会事業に尽力し、昭和26年84歳で旅立ちました。生地の稲川から、号を「稲江」として、書を愛しました。稲川の菩提寺満蔵寺には、胸像や書、写真や肖像画があります。寺の本堂や庫裏の改築、近くの川関神社の改修にも尽力しました。

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