【岡野繁藏】地元青島村から貿易王に

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

南洋の貿易王・岡野繁藏

三井、三菱と並ぶ貿易展開   衆議院議員としても活躍

岡野繁藏は、明治27年6月、志太郡青島村(藤枝市)南新屋に岡野和吉の末子として生まれました。8歳の時、母が亡くなりました。繁藏は「他人に後ろ指を指されない生き方をしなさい」という母の遺言を心に深く刻みました。繁藏は自ら蚕や鶏を飼い、それを売って本や文具を揃えました。学業成績は優等で、高等科を経て、田中にあった私立育英中学に進みました。

修養団を結成し青年運動

繁藏は登校の行き帰りを家業の穀物の運搬をして学費とし、法律家を目指し、昼夜を惜しんで勉学に励みました。2年の時、瀬戸川が決壊し、家が土石に埋まり、中途退学。藤枝駅前の丸十運送に住み込みで働くことになりました。その頃育英中学に赴任してきた橋本清之助と意気投合し、惰弱な風潮にある青年たちの意識を正そうとする社会教育団体修養団の藤枝支部を結成。結成式に主幹の蓮沼門三と芝浦製作所長太田黒重五郎を招きました。島田支部の発会式には渋沢栄一らを招き、近隣の人々を驚かせました。

ジャワへの渡航と会社設立

大正3年、20歳の時スマトラで雑貨商を営む豊原辰熊から、青年の紹介依頼が渋沢栄一にあり、蓮沼門三を通じて繁藏に白羽の矢が立ち、東洋商会に入社。3年後には本店支配人となり、バタピヤ支配人を務めた後、独立のため円満退社し、大正8年、大信洋行をスラバヤに設立しました。しかし、間も無く砂糖取引の失敗により無一文に。その後、台湾銀行からの融資を受け、再生。大正11年にはスマラン市に支店を開設。翌12年、30歳の時、妻婦美を迎えました。倉庫の一角を仕切った新居でした。昭和3年には、日本からのジャワへの輸出の1割を取扱うほどになり、取扱品目は4,500種、社員は2,000人に及び、三井、三菱と肩を並べる勢いでした。 

全国行脚と百貨店開店

昭和4年から5年にかけて妻とともに帰国し、講演行脚。全国70ヶ所、聴衆は6万人余に及びました。行脚の合間を縫ってスマトラにいる社員の家族を一軒一軒訪ね歩く人情家でした。昭和8年にはスラバヤとバンドンに同時にトコ千代田百貨店を2店を開店。以後バンドンやジャグジャにも開店し、順風満帆でした。しかし、昭和16年太平洋戦争によって全てを残して東京に引き上げました。

衆議院議員と別荘開発

昭和22年の衆議院選挙に静岡1区から立候補し、当選。次回の選挙での惜敗後、身体を壊し長野県野尻湖畔の別荘で静養の身となりました。その後周辺の土地を別荘として開発し、亡くなった妻の名を取って「ふみの丘」を建設。都内にはカレーチェーン「サモワールおかの」を展開するなど晩年まで仕事を続けました。昭和50年、逝去。享年81。

 

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