【長楽寺清兵衛】藤枝宿消防組初代頭取

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

侠客・長楽寺清兵衛

藤枝宿消防組初代頭取・清水次郎長の兄貴分

清兵衛は、文政10年(1827)2月、増井藤八の次男として生まれました。安政元年(1854)長楽寺の杉本家の女婿となり、その後、長楽寺清兵衛一家を起こしました。無欲で面倒見が良かったので、次第に街道筋では有力な親分となって行きました。清兵衛は最初、黒駒の勝蔵派に属していましたが、清水次郎長一家との間での友好関係が必要となったため、堀越の藤左衛門の斡旋で次郎長と杯を交わし、兄貴分となりました。

田中城主の御用聞きに

一方で、田中藩の城主本多紀伊守の知遇を得て、御用聞きとして、藤枝宿の警護に当たりました。本多候が甲府守護を命ぜられ同行の折には、勅使を名乗る一団を偽者と見破り、一網打尽にしました。

荒神山の決闘の仲裁人に

清水次郎長を一躍有名にした事件が、荒神山の決闘です。決闘後、親分同士は和解したものの、子分同士は殺傷事件が絶えず、警察も困り、清兵衛に白羽の矢を立て仲裁人に指名しました。清兵衛は甲州の津向の文吉にも仲裁人を依頼、2人の仲裁で、浜松の5社神社境内で手打式が行われ、その時の写真が残っています。

 

争いは一度、県から感謝状

その手打式の仲裁人を兄弟分の大藪の平五郎に相談しなかったことがきっかけで、清兵衛は生涯ただ一度の争いに巻き込まれます。役所の吏員が殺され、清兵衛は独りで責任を負い自首して80日間拘留され、釈放されました。明治になってからは、警察の御用聞きとなり、幾多の凶悪犯を逮捕し、静岡県からの感謝状が、杉本家(藤枝市本町の寿司店・魚宗)に保管されています。

白粉彫りの見事な刺青

清兵衛は、熊の森清兵衛という四股名を持ち、相撲の興行もしています。また、清兵衛は、全身に白粉彫りの刺青をしていました。背中に小野小町、胸から腰、手足には桜の花をあしらい、お湯に入ったり、お酒を飲んだりすると、ほんのりと桜色に浮き出てくるもので、色白だったため、それは見事だったといいます。

藤枝宿消防組初代頭取

明治13年に藤枝宿消防組が出来た折には、まとめ役として、初代の頭取となりました。晩年は楽隠居し、孫たちの家を泊まり歩き、大正10年8月、94歳の天寿を全うしました。その葬列の先頭が寺に到着してもまだ、家の前には多くの人々が残っていたといいます。洞雲寺の杉本家のお墓には、書家沖六鵬筆の顕彰碑が建っています。また、蓮生寺裏の茶ノ木稲荷に清兵衛建立の狐像があります。

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