藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
人間主義俳句を提唱・田中波月
島田にて俳句誌「主流」を創刊・俳句は「個人を尊重する哲学」
田中波月は、明治37年(1904)10月藤枝市(青島村)に生れました。名を伊市といいました。
家が倒産し、北海道へ
大正4年、楓園画塾に通い「波月」の雅号を貰いました。大正6年、14歳の時、家が倒産。父母と共に北海道に移住。この頃、短詩に興味を持ちはじめ俳句を作り出しました。
翌年、15歳で蹄鉄屋の小僧奉公に入り、その後、馬追や枕木工場で働きながら、北原白秋の詩などに陶酔。大正9年左手薬指切断の怪我を負った後、北海道各地を放浪し、大正10年9月、突然帰郷。この時、長谷川零余子「枯野」に入会しました。大正11年、19歳で伊藤りよと結婚。報知新聞支局地方新聞記者となりました。
その後、俳句に熱中し、「枯野」「鹿火屋」「芭蕉」「雲母」「層雲」「海紅」「あら野」「俳句春秋」等を購読。二十二歳の時、新聞記者から植木屋に転身。大正十五年、御仮屋に小居を新築し、「波月園」と号しました。
主流創刊、新俳句運動へ
昭和13年、吉岡禅寺洞の「天の川」に参加。戦時中は、三橋光波子の俳誌「しろそう」に所属し、幾多の評論を書きましたが昭和18年廃刊。戦後、昭和21年、しろそう復刊の形で「主流」を創刊しました。「人間主義俳句」を掲げ、新俳句運動を展開して行きます。
翌22年、第一句集『相貌』刊行。昭和31年、第一回口語俳句懇話会が福岡にて開催され、2年後、口語俳句協会が設立されると、その後、波月は、その推進運動の主軸を担うようになりました。俳壇の閉鎖的なあり方を批判し、俳句を文学と捉え、広い分野の人々との交流を進めました。
県内外でその力を発揮
県内においては、県俳句協会、全国的には口語俳句協会、現代俳句協会などでその力を発揮しました。39年還暦記念として第二句集『野』を刊行。翌、40年には、随想集『俳句以前・以後』刊行しました。41年「主流」20周年記念号を編集発行。200号を目前に9月17日脳出血で倒れ、22日逝去。享年61歳でした。昭和47年、「俳句文学を人間の場に据えるための道標」として島田市博物館隣接の朝顔の松公園内に句碑を建立。平成16年には、波月生誕百年を記念し、蓬莱橋のたもとに「ほうらい橋波月句碑」が建立されました。