【村松幸雄】東海の速球王

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

昭和13年甲子園で選手宣誓 名古屋軍のエース戦場に散る 

村松杯争奪の少年野球大会

昭和51年から平成元年まで、藤枝小学校で村松杯争奪少年野球大会が開催されていました。藤枝が生んだ大投手、村松幸雄(名古屋軍=現中日ドラゴンズ)を偲ぶものでした。幸雄は、大正9年3月、藤枝市白子にある足袋屋「村友」(現村友洋装店)を営む村松鉄造の次男として生まれました。

藤枝に快速球児あり

幸雄は、野球好きの父や兄の影響で藤枝尋常小学校4年生から野球部に所属しました。高等小学校に上がる頃には身長が170センチとなり、エースとして活躍しました。

昭和7年と8年の県下少年野球大会高等科部門で2年連続優勝。「藤枝に快速球児あり」といわれ、当時、甲子園を目指していた掛川中に進学。島田商、静岡中、静岡商の3校が圧倒していた時代でした。

 

掛川中学で甲子園に出場

掛川中学は昭和13年の夏、「全国中等学校優勝野球大会」静岡県代表となり、甲子園の開会式では、幸雄が選手宣誓の大役を務めました。 「われらは武士道の精神にのっとり、正々堂々と試合し・・・」と幸雄の声が球場に響き渡りました。結果は1回戦敗退でしたが、幸雄に目をつけた職業野球の東京セネタースと名古屋軍が激しい争奪戦を行い、名古屋軍に入団しました。

3年で東西対抗戦へ出場

入団1年目に5勝、2年目は21勝、3年目には、12勝をあげました。そしてこの年、巨人軍の千葉や水原、川上などの人気選手とともに現在のオールスター戦にあたる東西対抗戦に出場しました。その時の記念の出場選手たちのサインボールが今でも村松家に残っています。

 

欠番の背番号と鎮魂の碑

昭和16年、太平洋戦争が勃発。翌年2月、幸雄は召集を受け静岡第三十四連隊に入隊。同年暮れには満州、昭和19年2月にグアム島へと転戦し、7月25日戦死。24歳でした。幸雄の背番号「18」は、昭和25年まで欠番でした。東京ドームの傍らにある戦争で散華した選手を慰霊する『鎮魂の碑』には、幸雄の名が刻まれています。また、了善寺の墓には「義烈院幸譽忠道居士」と記されています。

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