藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。
これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
柑橘栽培技術者・中山金作
静岡みかんの技術向上に尽力・剪定技術体系を確立
中山金作は明治19年(1886)11月16日岡部町内谷に中山儀市の四男として生れました。明治38年、静岡県立農学校(磐田農高)を卒業後、志太郡農会の農事監督補として農業指導生活の第一歩を踏み出しました。明治40年から3年間、愛知県の園芸家若林高久氏に師事して剪定その他の技術指導を受け、中山式剪定法(志太式)と称される剪定技術体系を確立しました。
また当時のミカン農家に脅威を与えていた病虫防除にも多大な貢献をしました。大正2年、志太郡柑橘同業組合技術員、大正11年、庵原郡柑橘同葉組合技術員を経て、昭和2年、再度志太郡柑橘同業組合技術員となり《剪定手養成講習会》を創設。
戦前、剪定手の認定証者は三百余名に及び、志太郡の柑橘技術面にあたえた貢献は、はかり知れぬものがありました。
多くの「剪定手」を養成
戦後は《柑橘栽培指導員養成講習会》を創設して数多くの優秀な柑橘青年を養成することに努めました。志太郡下から優秀な栽培家を選抜。2~3年にわたり柑橘技術、理論を研修させ、講習修了者には、《柑橘剪定手》の認定証を与え、一般栽培家の技術指導をはかりました。
特に昭和以降、静岡みかんの生産技術急速な進歩の過程で、金作の人材養成が果たした役割は素晴らしいものでした。昭和19年より静岡県農業会技師として、志太支部に駐在。同21年3月31日定年により退職し、以後も静岡県果実協会技師、静岡県柑橘販売農業協同組合連合会技師として志太支部に駐在しました。
静岡県柑橘史編集に尽力
昭和29年、第一線を退いてからは『静岡県柑橘史』の編集に捧げ、膨大な資料の収集と取材に奔走し、同著完成の重要な役割を果たしました。そうした金作の尽力は衆目の認めるものとなり、昭和29年、産業功労者として知事表彰を受け、翌30年には、国より黄綬褒章を受章しました。
黄綬褒章の褒章の記には、「多年柑橘の生産技術の研究指導に努めて中山式剪定法を普及し又松脂機械油乳剤工場を設立して害虫の防除に寄与した。まことに業務に精励し衆民の模範である。よつて褒章条例により黄綬褒章を賜つて、その善行を表彰せられた」とあります。
蓮華寺池畔に頌徳碑
また、昭和29年、蓮華寺池畔に、志太郡下数千名のミカン栽培家によって頌徳碑が建立されました。昭和38年急性肺炎のため死去。辞世は「われ逝かばみかん園の土と化し根ばり丈夫にみのり豊かに」でした。その句碑が、翌39年、頌徳碑のかたわらに建てられました。
金作は、中山雅史選手のひいお爺さんの弟です。