【海野数馬】
葉梨小学校ガキ大将の生涯

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

奇骨の政治家 海野数馬

波乱万丈・七転八起の生涯、後半生は事業家として成す

海野数馬は、明治21年に静岡市呉服町の旅館業、大井善吉の三男として生まれました。母方の実家、藤枝市北方の海野家には子供がなく、生後間もなく養子となりました。葉梨尋常小学校や田中高等小学校時代はガキ大将として名を馳せ、静岡中学では遊び過ぎで退学処分となり、大成中学に転向して日本大学へ進学しました。

奇骨が切り拓く次なる道

卒業後、二六新報社を経て、朝鮮の元山毎日新聞に勤務していた数馬は、総督の寺内陸軍大将を誹謗する記事を書き、新聞社を解雇され帰郷しました。大正5年、28歳の時に家督相続に際して名前を勇吉から数馬と改めました。数馬は村長や郡長、署長など「長」が付く威張る人が嫌いで、弱者に味方し強者を挫く性格でした。

大正6年の総選挙で憲政会の鈴木富士弥を応援する演説がきっかけで政治に関わるようになりました。数馬の正義感はここでも発揮され、選対幹部を一喝し、その後幹部も運動員も同室・同飯となりました。翌年、同志と共に「憲政志太少壮団」を結成し、団長となって次々と応援候補を当選させました。

県会議員から代議士へ

大正12年、数馬は県議会議員に当選。焼津水産学校の提案や栃山川・朝比奈川の改修などで知事を動かし実績を上げましたが、大正14年に事業に失敗。先祖伝来の旧家は人手に渡り、静岡での借家住まいとなりました。昭和元年、島田商業学校設立を巡る政争で辞任。昭和2年の県議選に再出馬し当選しましたが、静岡に住まいを移していたため当選失格となりました。

半年後の衆議院選では、元県知事を候補者に担ぎ出そうと陸軍大将の宇垣一成に交渉しましたが、逆に数馬自身が説得され立候補。40歳で代議士となり、昭和5年、7年と3期にわたり当選。昭和4年には民政党の代表としてドイツで開催された万国議員会議に出席するなど活躍しました。

事業家としての後半生

その後の選挙では敗退し、些細なことで選挙違反に問われ引退しました。馬淵御殿と称された壮麗な家を売却。昭和12年に静岡小型自動車を、昭和13年には昭和木材を設立し、山林事業で成功して財を成しました。そして東海の名園と称される邸宅で晩年を過ごしました。

昭和39年、菩提寺である大慶寺の庭に、数馬を称えた石碑が有志により建立されました。数馬の座右の銘「学徒であると同時に志士でありたい」が刻まれています。この言葉は、幸徳秋水が数馬に託したものといわれています。昭和46年、波乱万丈の生涯を閉じました。享年81歳。戒名は正政院殿法護日勇大居士。

海野数馬の生涯は波乱に満ち、政治家としての熱い正義感と、事業家としての成功が光るものでした。藤枝にゆかりのある偉大な人物として、彼の足跡を後世に伝え続けていきたいと思います。

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