【鈴木實治郎】スズキ第三代社長

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

志太中から浜松高工へ・鈴木實治郎

世界のスズキへの基礎築く

鈴木實治郎は、大正2年(1913)11月、藤枝市長楽寺の中西辰次郎の四男として生まれました。幼少時はワンパクで、大人の自転車の三角乗りに挑戦しては転び、生傷が絶えなかったといいます。学業は優秀で、新しくできた志太中学校(現藤枝東)に進学。サッカーの父といわれる錦織兵三郎校長から、「至誠一貫」「新興の意気」といった人生訓を学びました。

巴川製紙所から逓信省へ

昭和9年、浜松高等工業学校(現静大工学部)卒業後、姉の夫の紹介で、巴川製紙所に入社。翌年には、大学時代の恩師の世話で東芝と逓信省に合格し、逓信省の仙台逓信局電気課に就職。発電用のタービンの検査技師として、各地の火力発電所を歩きまわりました。この時代、乗るはずだった列車に乗り遅れたために脱線転覆を免れたりするなど、強運な面も持っていました。昭和12年、本省で国策電力会社「日本発送電」の創立準備に関わり、昼夜を問わず仕事に専念しました。

鈴木姓となり鈴木式織機へ

昭和15年、鈴木式織機の鈴木道雄社長の三女と結婚。鈴木姓となり逓信省を退職し、鈴木式織機の社員となりました。既に戦時体制の軍需工場となっていましたから、最初は鋳物工場を担当しましたが、メインの仕事は大砲の砲弾製造となり、軍の要請によって飛行機エンジンの部品など、何でもこなさなければならないという、忙しくも厳しい時代でした。戦後、復興と共に織機の需要も増大し、社業も順調になりますが、好景気は続かず、会社も苦境に陥り、労働運動史に名を残す大争議の渦中の人となります。

退職、起業、そして復帰

實治郎は現場の人間の顔を最も知る取締役でした。そのため、再建案や人員整理の最前線に立ちました。3か月間家に帰らずに対応に当たり、解決となりました。再建に際し、豊田自動織機(トヨタ自動車)から役員を迎えるに当たり、取締役を退き、退社しました。實治郎は、まず鋳物工場を立ち上げ、その後独自のバイクを開発しますが、これは断念。鈴木自動車の販売代理店となります。昭和35年、義兄の俊三社長から会社復帰の要請に応え再び取締役に就任。復帰後の實治郎は、将来を見据えた発展のため、工場建設に力を発揮。その後の発展の礎を築きました。

世界のスズキを目指す

石油ショックの昭和48年社長に就任。世界のスズキへの布石として世界GPに復帰し、世界の頂点に君臨します。53年の排ガス規制も乗り切りますが、直後に病気で倒れ、会長に退き、その後は相談役として過ごしました。昭和59年勲二等瑞宝章。平成6年4月9日逝去。80歳でした。

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