【大石さき】35年間で850回の公演開催、映画ぷりてぃ・ウーマンのモデルに

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

大石さきとおばあちゃん劇団

医者への夢と保健婦への道

大石さきは大正5年3月、朝比奈太次郎の三女として大洲村に生まれました。郷土出身の女医、吉岡弥生に憧れ、医者になろうと、14歳で看護婦、23歳で助産婦資格を取得。結婚後、夫の仕事の関係で中国に行き、敗戦となります。捕虜収容所生活を経て、昭和21年帰国します。その後、無医村の大洲村では保健婦となり昼夜問わず、医者代わりに呼び出されました。乳児死亡が多く、志太病院の二階堂惣四郎院長と感染症予防の環境整備などに尽力し、藤枝市役所初の女性係長となりました。58歳で退職し、嘱託保健婦となりました。

おばあちゃん劇団誕生

高齢者が抱える健康や老い、不安にどう対処するか、民生委員仲間の河村恭子、小川まき、安達みね、大畑せつ、紅林つね、鈴木みゑ子と話し合い、劇団『ともしび』を昭和五十年に結成。演劇で高齢者に健康作りを訴える公演は、予想以上の反響を呼びました。昭和62年、劇団名を『ほのお』に改名し、本格的な活動が始まりました。

脚本は大石が作成、リハーサルは一度か二度。台詞は大体の筋書きを覚えるだけでほとんどがアドリブです。公演は全国に及びました。

平成13年の25周年記念公演後も幾多の要望に応えて活動し、平成23年、最後の35周年公演は850回目でした。

平成14年には、淡路恵子主演の映画「ぷりてぃ・ウーマン」のモデルとなり、全国に知られる存在になりました。同年、厚生労働大臣より「ボランティア活動賞」を受章。

平成17年、さきの妹の孫で写真家の多々良栄里が、さきと劇団の歴史をまとめた本を出版。昨年大石さきは100歳を迎えました。

 

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