【大井新一】18年間山口市政を支え続ける、高洲村長・県議としても活躍

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

 

初代藤枝市助役 大井新一

18年間山口市政を支え続ける、高洲村長・県議としても活躍
自ら稼ぎ勉強、養子縁組へ

新一は、明治32年島田市中河の鈴木和一郎、よしの二男として生れました。同44年、初倉小学校を卒業後、農業に従事しながら、通信教育の中学講義録を買い、石油の豆ランプの下で夜遅くまで勉学に励みました。学費は農業の合間に日傭などで賄いました。そうした評判を聞いた勉学好きの藤枝市兵太夫の親戚、大井啓次郎は、新一を養子としました。

教員・郡役所・県庁へ

大正5年、静岡県小学校検定試験を受験。不合格ながら欠員が出て高洲小学校の代用教員となりました。大正8年、徴兵検査を受けた折、志太郡長の目にとまり、志太郡役所雇を命ぜられました。文官の道を歩もうと決めた新一は文官試験に挑戦し二度目で合格。1400人受験し合格者60人中16番目の成績でした。大正11年志太郡書記を皮切りに、浜松財務出張所、北海道移民事務嘱託、社会事業主事、満洲国での移民輸送事務、榛原地方事務所長で終戦を迎えました。新一は銃後の戦争指導者として責任を感じ退官しました。

高洲村長から県議へ

昭和21年農民となった新一は、高洲村に農民組合を結成し、推されて郡の連合会長となりました。昭和22年全国一斉の市町村長選挙では、農民組合有志に担がれて志太郡高洲村長に当選、その余勢をかって1ヶ月後の静岡県会議員にも当選し一期を務めました。その後、志太榛原酪農業協同組合長、静岡県農業委員会委員、大井川土地改良区理事、静岡県収用委員会委員を経て、志太郡町村会事務局長となりました。

助役・土地改良区理事長に

昭和28年、町村合併促進法が公布され、事務局長である新一が中心となって合併事務を進めることとなりました。合併作業は難航し、特に藤枝町と青島町との対立は激烈でした。市長選挙は、市を二分し票差265票で山口森三氏が辛勝。助役人事も大石節氏と新一の争いとなり、最後は斎藤知事の助力もあり、新一が助役となりました。その後も青島地区では「分離期成同盟」が発足するなど、市政が安定するのに1年余を有しました。新一は、助役は裏方という信念で「自分に勝て」を信条に18年間黒子役を務めました。健康には造詣が深く「天真体操」を創案、実践指導を行いました。この間、藤枝市農業委員会会長、静岡県農業会議農地委員長を務め、自治功労として昭和47年勲五等瑞宝章を授与。その後も大井川土地改良区理事長や静岡県農業会議副会長などを務めました。昭和62年11月逝去。享年88歳。

 

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