【二階堂惣四郎】市民から愛される病院確立

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

初代志太病院長・二階堂惣四郎

養子を望み二階堂姓へ

藤枝市立総合病院初代院長、二階堂惣四郎は、明治44年(1911)新潟県新発田市の自作農松田惣之吉の三男として生まれました。幼少期、両親が農作業で留守のため、向かいの割烹旅館も兼ねた魚屋に居候して可愛がられていました。

尋常小学校入学ではずっと成績は一番でした。高等小学校に入学した春には、倒れた魚屋のおばあさんに代わって休日に売店を開き、その稼ぎで講義録を買い独力で勉強しました。惣四郎の父は進学に反対でしたので魚屋の主人に養子縁組を頼み、二階堂家の養子となり、経済的な援助も得て、中学に進学しました。

一高から東大医学部へ

県立新発田中学校でも主席を通しましたが四年の時、一高の入学試験に失敗。翌昭和4年、応援団長を務めながら見事合格しました。

一高では、中学時代から取り組んだ柔道に励みましたが、2年の夏、脊椎カリエスで柔道を断念。その結果、徴兵検査は丁種不合格で兵役免除となりました。また、左翼思想に感化され、東大工学部を受験するも失敗、その上、左翼運動で二度も逮捕されました。

その後、郷里での病気療養中、将来医者になり、地方で人々と共に生きる医療をやりたいと決意し、同12年東大医学部に二度目の挑戦で合格。卒業後は東大医学部物療内科に入局し、交通公社の温泉医や南千住の工場医を勤め、長崎原爆調査団にも参加しました。

終戦後の同22年全国農業会内原病院長に就任しましたが、1年で解散となり、恩師の紹介で同24年病院長予定者として藤枝に赴任してきました。

他の範とされる病院に

青島町、高洲村、大洲村の三ケ町村による共立志太病院は、激しい反対運動を乗り越えての開業でした。開業に当たり惣四郎は ①医療水準の向上を図る ②町村民と密接な関係をつくる ③赤字を出さないという目標を掲げました。

病院は毎年のように増築増床を行い、結核病棟や准看護婦養成所開設、乳児検診や結核検診、未熟児センター、人間ドックの開始など常に地域医療の先端を走り、県下の自治体病院の範とされる様になりました。

当たり前のことをやれ

惣四郎の座右の銘は「当たり前のことを当たり前にやれ」で、少しでも不具合があると「バカヤロー」と大声が院内に響きました。

同44年、名誉院長となり、嘱託医をしながら、私的には空手と謡の勉強と指導に尽力し、空手道場を自宅に併設しました。同49年、藍綬褒章受賞、平成2年には名誉市民となりました。

平成7年没、83歳でした。葬儀は藤枝市民葬となりました。現在、病院の玄関左脇には、胸像と惣四郎作詞の病院歌碑が建っています。

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