【上田毅八郎】鬼岩寺生まれの海洋船舶画家

藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えました。

これまでに数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。

このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。

海洋船舶画家 上田毅八郎

模型箱絵の第一人者、戦死者への鎮魂(ちんこん)・六千点

東京・九段にある戦傷病者の史料を保存展示する「しょうけい館」では、以前、企画展「戦傷をのり越えて描いた日々」が開催されていました。この企画展では、水木しげるとともに展示されていたのが上田毅八郎。プラモデルのボックスアート(箱絵)の第一人者として知られる海洋船舶画家です。上田毅八郎は、大正九年、藤枝市鬼岩寺に生まれました。幼少の頃から絵が好きで、小学校卒業後、様々な奉公先を経験し、父の跡を継ぎ、ペンキ職人となりました。時は、関東大震災後の建設ラッシュで全国各地の現場を回りました。

輸送船で高射砲手となる

二十歳の時に徴兵され、広島の陸軍船舶高射砲第一連隊に配属。民間から徴用した輸送船の高射砲砲手となりました。三年八ヶ月の間に二十六隻に乗船し、多くの船のスケッチを描きました。六回撃沈されるも生き残り、最後は、マニラで大空襲を受け重症を負い帰国。島根の太田病院で終戦を迎えました。入院中、負傷した右手が使えず左手で軍艦や輸送船の絵を描きました。静岡に帰郷後はペンキ屋に戻りました。

木製模型の箱絵を描く

転機は昭和三十三年。田宮模型が近所にあり、木製模型の箱絵を依頼されたのです。昭和四十六年からは静岡の模型会社四社が協同で進めたウォーターラインシリーズの大半を担当。船の種類や大きさ、風向きや船の速度まで考えた船の絵ができあがります。上田が「戦死した戦友が私の体を動かして描いている」としたその精緻で躍動感溢れるリアルな筆致はシリーズの大ヒットの原動力となりました。作品集も出版され、平成二十年には榎戸(えのと)真弓氏が伝記を執筆。平成二十三年藤枝市博物館で企画展、亡くなった平成二十八年には追悼展が静岡で開催されました。

 

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