藤枝市は、令和6年1月1日に、昭和29年の市制施行から70年、そして大正13年を起源とするサッカーのまちとしての歩みも100年となる記念すべき年を迎えます。
これまでには数多くの偉人たちが藤枝に関わってきました。
このコーナーでは、藤枝に纏わる様々な偉人たちをご紹介していきます。
初代青島村長 青地雄太郎
私財を投げ打ち、藤枝駅を前島に誘致。中央政界で活躍、郷土の発展に寄与
青地雄太郎は慶応元(一八六五)年、前島村(現前島一丁目)に青地半三郎の長子として生まれました。明治二十年、東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後は藤枝に戻って東海道本線布設の事業に奔走しました。
東海道本線は、明治五年に新橋=横浜間が開通、その二年後、大阪=神戸間が開通し、東西から工事が進められました。新橋=岡間が開通したのは明治二十二年二月、そして十月には全線(新橋=神戸) が開通しました。最初は単線で、全線が複線になったのは明治二十四年のことです。
難航した焼津=島田間
当初、焼津=袋井間は、藤枝・島田・金谷・掛川の旧宿場を通る案と、宗高・吉田・静波・相良を通る二案があり、距離が短く、地元の賛同も得られた、旧東海道案になりました。
ところが、焼津=島田間は難航しました。石脇・八楠北・越後島・平島から藤枝を経由する案と、現在の中村・塩津・築地・前島を通る案がありました。
当時、鉄道が通る事に対して様々な風評が飛び交いました。「鉄道で多くの田畑がつぶれる」「汽車の煙で火災がおきる」「駅ができると旅行者が素通りして町がさびれる」などです。「鉄道がこないよう」にと村人が総出で神社やお寺に願を掛けるほど、自分の村には鉄道を通したくないという気持ちが高まっていました。
雄太郎の説得と路線決定
そんな状況の中、雄太郎は藤枝に戻ってきました。二十一歳でした。雄太郎は、「鉄道は文明の利器である。反対ではなく、むしろ、進んで歓迎すべきものだ」とこれからの地域の発展には鉄道が不可欠だと村の長老たちを説得して回りました。そして、ついに、一年余にわたる努カが実を結び、鉄道が前島村を通ることに決まったのです。
藤枝駅誘致に土地を提供
路線問題と同時に雄太郎が取りかかったのが駅の誘致でした。当初駅は、豊田村に予定されていました。雄太郎は「駅を作る事で、前島を産業・学問・文化・交通の起点にしたい」と沿線の地主たちに説きました。そして、雄太郎は、自分の土地を駅の敷地として寄付し、ついに駅をつくることに成功したのです。明治二十二年四月のことでした。
村長、そして中央政界へ
同年の四月、市町村制が敷かれ、「青島村」の誕生と同時に雄太郎は二十四歳で初代青島村長になりました。
その後、明治三十五年には国会議員として政界で活躍、政界引退後は、実業界に転じ、信州において電力、鉄道事業に関与し、地域の振興に敏腕をふるいました。
大正十三年突如病となり、藤枝に帰郷し療養に専念しましたが、大正十五年十二月二十四日不帰の人となりました。六十一歳でした。